2007年11月10日
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全学労連ニュース今号の内容

 教職員定数「加配」を止め、本則改善をやれ

 「共同実施」に反対し、「教育改革」三法体制との闘いへ―文科省交渉等から見えてきたもの―

 日本政府が日本軍による集団死強要の事実を消し去りたいのは、愛国新教育の妨げになるからだ

 シリーズ共同実施 「共同実施」は「共同幻想」だ

教職員定数「加配」を止め、本則改善をやれ

 教育基本法改悪を強行し、教育三法も改悪した文科省は、アベシンゾーの無責任投げ出し逃走の後も、「教育再生は重要課題」にしがみ付き、アット驚く概算要求を出した。

 「教育三法と一緒じゃなくて、今頃出すとは。後出しジャンケンだ。」(総務省官僚の弁)のとおり、政府内でも呆れる声が多い。(教育三法当時、行革推進法の見直し案はまったく提案されていない。「教職員も児童生徒数の減少を上回る純減をする」と法律に明記されているにも関らず。)

 2008年度文科省概算要求の問題点を指摘しよう。

(1)「加配方式」が生み出した格差拡大

 これまで文科省は第7次まで定数改善計面進めてきたが、第6次(1993年)からは「加配方式」を取り入れ、特に第7次定数改善からはほぼ全てが「加配方式」である。(第6次も第7次も自然減が多く、実人数は増えていない。)

 その結果生じたのは、「期限付き教職員の増加」である。定数の本則が増えず、あくまで「ナントカ加配」のため、各任命権者は正式採用教職員を配置できず、臨時職員を充当させてきたのだ。その結果各県に「期限付き教職員」があふれ、今や病休の代替職員を確保しようにも教員免許保持者は払底していて、代替なしの事態が現れるところさえ出てきた。

 また、この間の「給与構造改革」でも臨時職員の賃金問題は放置されており、正規職員との賃金格差、および地域格差が拡大している。教員では臨時職員の職名が「教諭(2級)」であるか「講師(1級)」であるかが各県ごとに異なり、当然賃金格差は大きい。また事務職員や栄養職員では、臨時職員はあくまで「1級」に格付けされ、経験を積み重ねても、賃金頭打ちにすぐ到達してしまう。

 このように学校の中に劣悪な労働条件の非正規職員を多く生み出した原因は、この間の文科省の定数改善が「加配方式」であったからである。

 今回の文科省概算要求の表題は「教員の子供と向き合う時間の拡充」であるが、そこでも「加配」の言葉が踊っている。「主幹が配置されれば加配」「教員の事務負担軽減のための共同実施で加配」などなどである。でも、「子供と向き合う時間の拡充」のためには「ヒラ教員を増やす」ことが一番効果的であることは誰でも分かっている。

 現在全国小中学校の予算人員定数は701,777人、そのうち基礎教職員数は647,350人、加配教職員は54,427人である。実に7.8%が加配分である。(財政審の資料から)その加配分を定数の本則にすることをまず行い、その上で新たに定数改善を行うべきなのである。そうでない限り、非正規教職員は更に増えるだろうし、労働条件格差拡大は止まらない。

(2)「教職調整額」が超勤手当の代わりだったとは。

 今回の概算要求では、定数改善とは別に、「メリハリのある教員給与」を計画し、4年間で800億円(地方分を含めると2400億円)の増を打ち出した。その中で最も驚いたのは教職調整額の引き上げである。手当や退職金への跳ね返りを止める代わり、現在の4%を12%に引き上げる案を示した。(4年間で国費700億円、地方費含むと2100億円と積算)

 これは、文科省の実施した教員勤務時間調査の結果で、教員は平均して月37時間の残業をしているので、なんとか抑制して17時間にし、その17時間分に見合う教職調整額に増やそうとする案なのだ。

 だがしかし、「教職調整額」が教員の残業代だということを公式に聞いたことはない。教員を無制限長時間労働に追い込む俗説であり、教員の残業は「限定4項目」だけで、他の残業はムニャムニャとごまかしてきたはずだ。

 今回の概算要求が言うとおりなら、これまでの教員の残業代に教職調整額はまったく足りないのだから、その分を支給しなければならなくなる。

 われわれは、「給特法」成立時から、この法律を批判してきたし、学校事務職員にサービス残業をもたらすものとして法律の廃止を求めてきた。労働者が残業したときはきっちり残業代を支払えばいいのである。労働基準法で、学校は「36協定」を結ばなければならない職場なのだから、教員も事務職員も同じ労働者として、堂々と36協定を結び残業には残業代を支払わせればいいだけだ。「教職調整額」のごまかしを今こそ突破するいい機会を文科省が言い出した。

(3)更なる学校事務の合理化を促す「共同実施」。

 文科省の概算要求では、「教員の事務負担の軽減」のため「複数校の事務を共同実施する体制の整備促進(12学級以上の中学校の2校区に1人事務職員を加配)」として、学校事務職員を3年間で1,456人、来年度485人の増を計画している。

 私たちとの交渉で「学校事務職員の労働条件のための定数増ではない。」と公言する文科省官僚は、第7次までの学校事務職員定数改善計画の実配置数が予算の半分程度に留まり、また各県の配置数の偏りが大きくなっていることへの反省を口にすることは無かった。義務教育国席負担金制度が「教育の機会均等保障」の重要な手段であるならば、配置数の偏在は機会均等の目的からの逸脱であり、文科省自らがその役目を放棄してまでも「加配共同実施」にこだわるのは何故なのか。

 「最初は加配で事務職員を増やして、さまざまや事務を合理化しやすくして、その後人減らしでしょうね。」とは、ある地方6団体の職員が「学校事務職員の共同実施加配」に対し当たり前のように発した言葉である。今回の概算要求はこれまでの「共同実施加配」にも増して、学校事務の合理化を促すメッセージが色濃い内容なのであろうか。すでに地方行革は学校にも及び、特に高校事務の総務サービスの本人入力、事務センター方式などが始っている。それを承知の上での「共同実施」は学校事務職員の解体、削減を狙ったもの意外にない。

 

「共同実施」に反対し、「教育改革」三法体制との闘いへ

―文科省交渉等から見えてきたもの―

10月12日、全学労連は臨時教員の賃金問題、’08年度概算要求等を巡って文科省と交渉を持った。又、10月15日には今回の文科省概算要求に関わって総務省、全国知事会との折衝を行なった。

「行政改革」―「学校民営化」と連動した「共同実施」推進を含む「教育改革」三法体制を露骨に推し進める文科省の姿勢がいよいよ明らかになった。義務教育費国庫負担の「1/3決着」―交付税削減の中で疲弊していく地方の現実を尻目に教基法「改正」以後の新たな教育支配を狙う政府―文科省との対決が重要な課題として浮上してきたと思う。以下報告する。

1 文科省交渉

(1)「各県を指導する権限は文科省にはない。調査は出来ない」

―臨時職員の賃金改善について責任逃れの回答に終始―

 全学労連は文科省学校基本調査をもとにした公立小中学校の講師数に関する資料を示しつつ、職名―格付級の違いにより賃金等で臨時教職員の労働条件の格差が拡大していることを指摘した。より公正な労働条件を確立する一歩として、賃金、休暇などの労働条件及び雇用者数を早急に調査し公表することを求めた。

 これに対して文科省は「常勤職員を基本としつつも、各県の実情に応じて様々な雇用の形態を取ることは任命権者の判断である。文科省としては指導する権限はない」という回答に終始。

 地公法22条の臨時的任用を同17条の欠員で任用するという「脱法行為」(’07/7総務省発言)、臨時教職員の「給与上限規定」による低賃金雇用がまかり通っている不当な現実を指摘しつつ、重ねて文科省として調査を実施することを要求した。

(2)「(共同実施加配は)事務職員の待遇改善のためにやっているのではない」

―概算要求の本質を自ら暴露した文科省―

 文科省の概算要求に盛られた教職員の増員計画「教員の子どもと向き合う時間の拡充」と題された計画(案)は、児童・生徒数、学級数などの客観的基準によるものではなく、主幹教諭の配置、事務の共同実施等の条件をつけて加配するという内容である。

 「標準定数法を軽視した慢性的な欠員状況を放置しながら更に加配方式を拡大していくということでは決して実効ある定数改善はできない」。この全学労連の主張に対して文科省は「事務職員の待遇改善のためにやっているのではない」と言い放ち、あくまでも「『教員の多忙化対策のための共同実施』を申請したところに加配する」ことを強調した。

 一方で主幹教諭等の処遇改善と対応して教員の加配を行ないつつ、他方で「教員の多忙化解消」を目的に「共同実施」等を行なうという。しかし、これは、管理体制の強化と不安定雇用の臨時労働者の拡大をもたらすだけであり、学校状況は教員を含めてますます厳しいものになっていく。再度そのことを強く主張し、今回の概算要求に対する反対を表明して交渉を終えた。

2 総務省、全国知事会折衝

(1)「文科省のマッチポンプではないのか」

―総務省

 「文科省が定数法の本則を変えず加配による『定数増』という手法をとり続けてきた結果、ますます身分不安定な臨時労働者が増え続けている。今回の文科省概算要求は矛盾を深めていくものだ」。

 全学労連の主張に対して総務省は「加配方式ではいつ梯子を外されるかわからないが故に正規職員の配置ができない。そのことはよくわかる」とコメント。

 加えて今回の文科省概算要求についてどう考えるかとの質問に対しては次のように発言した。

「『教育改革』三法の付帯決議で『教職員定数の改善』が打ち出されたことをもって、21,000人の増員要求をするというのであれば、文科省は行革推進法や定数法の見直し等も正面から提起すべきだったのではないか。『後出し』『場当たり的』という感がする。『子どもと向き合う時間の拡充』というが、なぜ多忙なのかがあまり議論されていない。文科省がいろいろな政策を現場におろし、それが現場の多忙化を引き起こしているとすれば、今回の概算要求は『マッチポンプ』なのではないか。『主幹教諭』など管理職やその候補者の処遇を改善して『子どもと向き合う時間』が生まれるのか疑問だ・・・。」

 市町村合併等を通じて「行革」を推進している当事者である総務省が傍観者的に言えることではないだろうが、少なくとも今回の概算要求に関する限り的を射た指摘を含んではいる。総務省の指摘を受けて言えば、改めて「行政改革」に対する批判を強めながら、文科省概算要求の狙う「教育改革」三法体制の実態化に反対していく運動を進めていく必要があるということではないだろうか。

(2)「地方は厳しい状況にある」「文科省概算要求の基準はあいまいだ」

―全国知事会

 「『三位一体改革』で地方交付税が減らされたことにより、地方は疲弊している。小さな自治体は苦しい状況だと思う。『改革』の総括が必要だと考えている。各自治体は職員削減を進める一方で自分たちの持ち出し財源を使って35人学級などについて努力している。そんな中で今回の文科省の概算要求をみると、『主幹教諭』配置に伴う教員加配の一つとってみても、基準が極めてあいまいではないか。中教審で議論している『共同実施』と絡めた事務長制も、事務職員配置の実態とはかけ離れた考え方だと思う。」

 このように語る全国知事会の担当者に対して、全学労連としては東京の実態(徹底的な管理体制―合理化によって、主幹教諭を確保できない状況や2,500人中500人の欠員を出している事務職員の配置状況など)等を示しつつ、文科省概算要求の非現実性を指摘した。「地方の厳しい状況を訴えていく」という知事会の今後の動きを見守りたいと思う。

≪まとめ≫に代えて

(1) 文科省概算要求に対する本質的批判を!

 文科省は今回の概算要求で「教職員定数の改善」と「メリハリある教員給与体系の実現」を揚げた。「教育の再生のため、教員の子どもと向き合う時間を拡充し、学力の向上と規範意識の育成を目指す教職員の配置」等を実施すると記された定数改善案は実効ある定数改善とは程遠いものだ。教員の多忙化を解消し、時間外労働を減らすことを文科省が本気で考えるというのならば、例えば30人学級を基本とした抜本的な定数改善こそ要求を集中すべきだったはずだ。総務省や全国知事会の担当者ですら首を傾げたくなるような要求を文科省はしているのだ。何のために教員の時間外労働の調査をやったのか。空しさが残る。

 新自由主義的な、従って又国家主義的であらざるを得ない「教育改革」が学校をおおっていこうとしている。その中で「教員の子どもと向き合う時間の拡充」とは、授業時間を10%増やし「学力の向上」という名の下に「学力テスト」をテコにした徹底した能力主義―競争主義の教育を子どもたちに強制していくことでしかない。「規範意識の育成」はグローバル化する世界の下でアメリカ合州国と一体化した戦争国家体制を支える少国民作りを狙うものだ。人事評価制度、教員免許更新制の導入など徹底した教職員管理体制はその実現を担保するようなものであることは言うまでもない。

(2) 学校という労働現場に依拠した運動を!

 かつて日教組が給特法―人確法攻撃に敗北し、これを受け入れていったその果てに、教員の休憩も取れない長時間過密労働の現実がある。教員と教員以外の学校労働者との分断はより深刻なものになっていった。今や学校現業労働者は給食などの民間委託合理化等の攻撃にさらされ、次々と学校から引き上げられていこうとしている。

 私たち事務職員はどうか。今回の概算要求が端的に示しているように、文科省自身が「学校事務の共同実施」に向け大きく舵をきったことによって「学校事務センター」への引き上げが現実のものになろうとしている。事態が深刻なのは、公務員制度再編―職務給原則の徹底の動きの中で、日教組事務職員部が「長」を方針化し、全事研が一挙に組織拡大を図るなど政府―文科省の「教育改革」に限りなく翼賛的な「共同実施」推進勢力が台頭してきているということだ。

 1970年代、都学労に始まる学校事務労働者の自立的運動は、国庫負担外し阻止闘争の経験を踏まえて、今こそ学校という労働現場に依拠しつつ、いかに職種間差別と正規―臨時労働者間の分断を越えた運動を創り出していけるかどうかを問われているのではないか。

 

日本政府が日本軍による集団死強要の事実を消し去りたいのは、愛国新教育の妨げになるからだ

 7月28、29日に全国学校事務労働者交流集会(全交流)が行われ、哲学者の高橋哲哉氏の講演「教育基本法改悪・・・その後」があった。

教育基本法を変える理由は無かった

 講演のはじめに第二次大戦中の靖国神社における軍事行進のフィルムが上映された。フィルムを見て思ったのは、国家と教育の関係だ。

 戦前・戦中の教育の根幹には、教育勅語があった。教育勅語の精神は、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ以て天壊無窮の皇運を扶翼すべし」に尽きる。国家の危機の際には命を捨てて天皇と国家に尽くしなさいということだ。

 03年に長崎市で中学生が幼児をナイフで切りつけ、駐車場の屋上から転落死させる事件が起こった。この事件を受け、森喜朗元首相は「両親、国家、地域社会、家族に対し責任を持つことを教えない、教わらない人たちが大人になっている。そこで生まれ、育てられた子供たちは、もっと悪くなるのは当たり前ではないか。そういう意味で、教育基本法の改正をやれと言ってきた」と言った。

 自己主張は上手だが、責任を果たさず権利ばかり主張する子供が増えたり、少年犯罪が増加しているのは、戦後教育が間違っているせいだ。問題解決のためには、その大もとの教育基本法を改正する必要があるという論法だ。

 しかし、この論法には間違いや無理がある。統計から見ると、少年犯罪件数は戦前の教育を受けた世代が現役の少年である戦後の十数年が最も多く、教育基本法が浸透した1970年代半は以降は、ずっと減少傾向が続いている。

 また、教育基本法の第一条には「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」とあり、国民に責任を教えることを明記している。教育基本法を変える理由は無いはずだ。

お国のために命を“ささげる”国民を作るため

 04年に自民党と民主党の国会議員が集まり作った教育基本法改正促進委員会の設立総会で、民主党の西村眞悟議員は「お国のために命を投げ出しても構わない日本人を生み出す。お国のために命をささげた人があって今ここに祖国があるということを子供たちに教える。これに尽きる」と発言した。その会に参加した国会議員には、かつて国民精神を戦争へと動員するためにきわめて有効であった愛国心教育へのノスタルジーが強く残っているのだろう。

不当な教科書書きかえに抗し続ける

 残念ながら教育基本法は昨年12月、安倍自公政権によって強行採決という形で変えられてしまい、「愛国心」と「日本人としての自覚」の育成を教育目標とすることが可能になった。憲法を変えるための準備も整えられつつある。個人の尊重と平和主義を目指してきた戦後体制からの脱却が着々と進んでいる。その一環として、戦時中の沖縄における集団自決に日本軍の関与がなかったとする高校歴史教科書書き換え問題がある。

 検定前の申請教科書では「集団自決」について「日本軍に…強いられ」「日本軍により…迫い込まれ」などと記述、日本軍による強制、命令を明記していた。この文章を文科省は、大阪地裁で係争中の「集団自決」訴訟での日本軍元戦隊長の証言などを根拠に、「沖縄戦の実態について、誤解するおそれのある表現である」との意見をつけてきた。その結果、修正後の記述では「集団自決」がどのように引き起こされたかがあいまいなものに変えられている。

 日本の軍隊が自国民を守らないばかりか、殺したり集団死へ追い込んだ事実を子どもに知られては、「愛国心」教育の妨げになる。歴史を曲げてでも、都合の悪い記述を教科書から消し去りたいと思う人たちがいる。

 教科書は、今後何年も使われるものだ。今年だけで終わらさずに、抗議を続けていく必要がある。独白の副読本を作成し授業で使用してはどうだろう。沖縄選出国会議員には、超党派で継続してこの問題に取り組むことを約束してもらいたい。

 沖縄はヤマトにとって端っこの島でしかない。それでも私たちにできることがある。怒り続け、声を発し続けることだ。決してあきらめないことだ。(H)

参考図書:「教育と国家」
高橋哲哉著講談杜現代新書

 

シリーズ共同実施

「共同実施」は「共同幻想」だ

 私は採用以来同じ市で30年間仕事をしてきました。それがあと5年を残すところで共同実施のカラミで今の市に異動になりました。県関係は別にして、財務をはじめとする市関係の仕事は全くわからないもので、この歳をして仕事を一からマスターするための苦労をするとは思ってもいませんでした。これまで培ってきたそれなりの財務へのノウハウ、人との繋がり、その他諸々の蓄積を剥がされ、また再度積み直していかなくてはならないわけです。残された少ない期間の中でどこまでそれができるでしょうか?自分の口から言うのもおかしな話ですが、これが人材の有用な使い方としてどうなのか、非常に疑問に思っています。

 実際、市の財務事務については、グループの事務職員に教えてもらうばかりで、仕事の覚えの早い、年下の事務職員に支えられて日々を送っているというのが実態です。といっても、これまでの学校事務職員というのは実際そうでした、どこの地域でも事務職員同士で支え合い、相談しながらやってきたのではないでしょうか。ところが共同実施の目指すところは、「指導」と「被指導」です。そんなことで仕事が進むのかといったら、決してそんなことはない、と私は思います。逆にこれまで事務職員自身が築いてきた、自分たちの立ち位置をなくすだけで、他に何ももたらさないだろうと日々感じています。

 それでも事務長は共同実施を進めなくてはならない立場(服務監督者である市町村の頭越しに、義務校職員の服務を県が直接規定することの違法性について見て見ぬ振りをしている行政の問題性はここでは措くことにします。)、一応リーダーという形で共同実施を運営することになります。分担制も一応割り振りだけはしてみました。ですけどこれまで分担制で効率化されたという実績、あるいは根拠ある見通しが示されたことはありません、そんな現状で事務職員の多忙化だけをもたらすかもしれない分担制を推し進める決断は持てずにいます。

 ただ週1回半日の時間を無為に使うことも許されないので、その時間を少しでも事務職員自身の職能成長や相互チェックなどに使い、確かな仕事を目指そうなどと思っているのですが、それも本筋から外れている、共同実施の目的ではない、などと事務長会からは指摘されています。

 結局どうしたらいいのでしょう、しかし、最初から答えのない問題に解答を求められているのが今の共同実施なのではないでしょうか。「地域の事情」を踏まえ、一人一人の事務長とそのグループで自分たちの「共同実施」をしなさいというのが県教委の立場ですが、「共同実施」=「分担制=「効率化」という誰が考えたかわからない論理(論理になっていませんが)に振り回されている、それが県下の状況ではないかと思います。これからも事務長の苦悩は続くのです。

 
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