2008/07/20 全国学校事務労働者交流集会 基調報告

新自由主義幻想を突破する労働組合の存在意義

ワーキングプアと教員ワイロ

 非正規雇用労働者の問題がようやく認識され始めた。「自己責任」の言葉で、貧困問題を個人の責任としてきた世論も、「貧困の相続」が限界まで来てしまっている現実を無視できなくなった。昔も金持ちの子供は金持ちになる回路を持っていた。貧困の相続も存在したが、高度成長がそれを隠してきた。

 経済成長の終焉と、それから始まった新自由主義政策は、「才能を発揮した者、努力した者は、そうしなかった者より、得るものが多い」の掛け声で、「結果は自己責任」と格差拡大を当然視してきた。その結果、世界中で格差が拡大し、貧困の相続が続いた。そして今や、それが社会問題の根底にあることが明白になった。

 一方今話題の「教員採用・昇任ワイロ」問題。中流になった教員が、少しばかりの金で子供の人生を買う。民間企業では、多かれ少なかれどこでも転がっている話だと思う。が、教員にスポットが当たったのは、「公平さを売りにし」、誰もが経験した(恨みの多い)学校が、不公平の局地だったことに歓声をあげている姿なのか。

 (貧乏人にとって、「公平」だったことなど、一度もなかった。昔から世の中は不公平で、ワイロに近寄る術はなかっただけだ。だからこそ、新自由主義の唱える[公平な競争ルール]の幻想は貧乏人にとっても、歓迎すべき言葉に思える。)

 教育基本振興計画ドタバタの文科省の完敗ぶりと大分県ワイロ教員採用で、教員増の目はなくなった。教員の賃金削減と定数そのままは貫徹される。それにしても、文科省銭谷事務次官の「反省すべき点がある。もっとエビデンス・ベースド(証拠に基づく)というか・・・。諸外国との比較、分析に改善の余地があった」との会見の様子を報道している。これほど文科省がトンデモさんたちだったとは思わなかった。これで官僚世界は、新自由主義路線の勝ちが決まってしまったのか。

学校・教育の「民営化(privatization)」のキーワード

効率化

 新自由主義の理論は、「市場がなければ創ってしまえ。」だから、戦争だって民営化して、イラクでは多くの民間企業が戦争参入している。公の分野でも、生存に必要な水も医療も民営化は当然で、教育だってどしどし民営化にして、さまざまな手法が試されてきた。税金で運営する分野を減らし、市場で賄えというのだ。そうすれば税負担が(特に多くの税負担をする層の)が減る。

 そのとき使われるのが「効率化」ということば。学校事務職員の世界では、大流行の言葉で、「共同実施で効率化な業務を」「教員の事務軽減のために効率的な学校事務を」などなど。(「手書き文字は読めないからワードで」は、まだまだ素朴な使い方)

 民営化とは、「その事業から利益を上げる」ということ。民間の手法とは、「利益を上げる体制にする」ということ。だから「効率化」とは「事業の利益率を上げる」と同じことを意味する。そして、公益事業で「効率化」するには、「同じ経費なら事業規模を拡大する」か「同じ事業規模なら経費を減らす」のが、常道。その上、民営化した公益事業が利益を生み出さなかったら、民間企業は事業から撤退することになる。

 当面公教育の一挙の民営化は進まないであろう。しかし、その思想は現場を当たり前の顔をして侵食してくる。

 そのひとつ「学校規模適正化」が財務省を中心に声高になってきた。公教育で最も多額の経費は人件費。その人件費の節約にもっとも寄与するのが、学校統合である。学校振興基本計画の結末は、統合圧力を強めるはずである。

 学校事務の「共同実施」がもたらす効率化も、勿論この人件費抑制である。ほとんど学校一人の事務職員、標準定数法割れが常態になっている今、更なる人件費抑制圧力は非正規雇用学校事務職員の拡大につながるだろう。

 大阪橋下知事の財政再建計画。年度内1100億円の収支改善目標だが、「障害者、治安、切迫した命。これにかかわる施策は行政がやる。」と言った。しかし、現実は「夜間中学就学援助制度の廃止」が象徴するものであった。その一方、国直轄事業410億円は継続するという。公共の仕組みに、「民間では」「民間手法」と、橋下知事も言っている。「会社再生法」なら負債の一部減がある。だが自治体の負債は−切手をつけないし、利子率の見直しもない。負債は全部利子も含めて返すことになる。金持ちの金は減らさない、ということだ。1970年代のニューヨーク市も負債は全額返させられた。一方市職員は20%6万人が削減され、5年間賃上はなく、ガラスが割れ雨漏りのする教室で子供は勉強した。

評価(出来高)

 もうひとつ、「評価」を考える。

 「評価」とは、「同じ労働時間で、出来高(成果)が多いか少ないか、を調べる」ということだろう。だから出来高に関係しない金持ちは、評価が存在しない。

 しかし、多くの働くものは評価にすがりつく。特に新自由主義思想が多くの人々の支持を集めている今、「成果を多く上げた者に多くの報酬」に疑問を持たなくなっている。教育をめぐっても、「平等主義の学校」より、「自己責任」を引き受けても、「評価の高い」学校に向かっている。

 学校事務職員にとっては、教員中心主義の学校で、「評価の外」「学校の価値の外縁部」に放置され続けていたから、「評価への飢え」さえあった。そのため、一部の「評価されたい事務職員」は、評価制度を自らの野心に結びつくものとして歓迎している。勿論、多くの事務職員は、「学校事務を認めてほしい」けれど「誰が評価できるのか」「校長じゃ、ウザイ」と醒めた目をしている。

 ここに「省令事務長」が登場してきた。全学労連事務局の折衝で、文科省担当者は「年度内に文科省令に事務長を入れたい」と発言した。全事研・日教組事務職員部の悲願「事務長」を文科省が認めようというのだ。「評価されない日陰」から「教員より上の立場になれる」のだ。給与構造改革・賃金抑制で行(一)3級止まりの広まりに対する効果も期待している。

 しかし、どんな言い訳をしても、現在予想される「事務長」は、多くの仲間を犠性にすることを前提にする。それぞれの学校で、全事務職員が「事務長」という名前になるならいざ知らず、一部の者だけが「事務長」になるだろう。そのためには個々の事務職員を「評価」して、「順番」をつける必要がある。ところが、学校事務はそれぞれの学校で、特色ある学校事務をやっているわけだから、原理的に事務職員間に順番を付けることができない。となると、順番をつけられる場所が必要となる。それが「共同実施」の登場の真相なのだ。

 さて、文科省の例の「別表7」は、学校事務職員の賃金水準を想定しているのだが、18歳から働いて40年の経験を積むと、いわゆる管理職水準の賃金に到達することを明記してある。なにも人を蹴落としてまで「管理職」の名前を頂戴しなくても、そこそこに生活できるのだ。(多分、国家公務員三種の平均的な水準を元にしているのだろう。)

新自由主義を突破する労働運動

 新自由主義イデオロギーは「いかなる状況下でも、自らの選択と責任に基づいて行動する人間」を想定する。「個人を押しつぶすことに対抗して自立」し、「公平な同一のルールを要求」する「自立した強い個人」が求められる。だが、その思想の中では、勝ち組という嫌な言葉に代表されるように、その個人は「弱者への配慮を欠いた最も野蛮な人間になることにつながりかねない。

 6月福事労定期大会で、「福事労効果」を話題に、組合員に話し合ってもらった。その中で幾人かが「弱い私がここまで働いてこられたのは、福事労のおかげ」「職場で一人。孤独だったが、福事労に出会って、居場所を見つけられた。」「本当に今日まで学校事務職員をやってこれたのは、福事労があったから。」などの発言があった。この言葉には、「福事労、やっててよかった。」がある。

 労働組合の存在意義はここにある。新自由主義の幻想「公平なルール(競争)」と「自己責任(責任を負わされる強い個人の想定)」を強要される労働者が、押しつぶす力に対抗できる場所が労働組合だ。圧倒的な強権と支配的な思想を前に、弱いと自覚せざるを得ない労働者が生き延びるために必要であり、その効果を発揮できるのが労働組合であることを再確認しよう。

 学校事務職員の当面の課題も、新自由主義との対決の場面になる。「学校適正規模」と「共同実施」は「効率化」を掲げて、人件費抑制に拍車をかける。働く場所が奪われることや非正規労働者の導入につながる。「評価制度」や「事務長」と「共同実施」は、学校事務職員間の格差拡大、大半の労働者の賃金抑制に働く。このような場面で、大半の学校事務を働く労働者にとって、「安心して長く働き続ける」ことが奪われることになる。私たちは、「勝ち組」にならない、なれない人々の居場所としての労働組合を維持していこう。


 「新自由主義とは何よりも、強力な私的所有権、自由市場、自由貿易を特徴とする制度的枠組みの範囲内で個々人の企業活動の自由とその能力とが無制約に発揮されることによって人類の富と福利が最も増大する、と主張する政治経済的実践の理論である。

 国家の役割はこうした実践にふさわしい制度的枠組みを創出し維持することである。たとえば国家は、通貨の品質と信頼性を守らなければならない。また国家は、私的所有権を保護し、市場の適正な働きを、必要とあらば実力を用いても保障するために、軍事的、防衛的、警察的、法的な仕組みや機能をつくりあげなければならない。さらに市場が存在しない場合には(たとえば土地、水、教育、医療、社会保障、環境汚染といった領域)、市場そのものを創出しなければならない・・・必要とあらば国家の行為によってでも。

 だが国家はこうした任務以上のことをしてはならない。市場への国家の介入は、いったん市場が創り出されれば、最低限に保たれなければならない。なぜなら、この理論によれば、国家は市場の送るシグナル(価格)を事前に予想しうるほどの情報を得ることはできないからであり、また強力な利益集団が、とりわけ民主主義のもとでは、自分たちの利益のために国家介入を歪め偏向させるのは避けられないからである。」(「新自由主義」デピット・ハーヴェイ)

資 料

(1) 「義務教育費国庫負担法第2条ただし書きの規定に基づき教職員の給与および報酬に要する経費の国庫負担額の最高限度を定める政令施行規則 別表第7」による学校事務職員の給与水準

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(2) 学校事務職員の定数割れ状況

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(3) 公立小中学校の講師数

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